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ウルトラマンのやり方

特に無資源国の日本にとっては、そのひとつに依存するということは危険な賭けといってもいい。 二十一世紀がLNGに、天然ガスに依存することはまちがいないにしても、イギリスのようにてダッシュ・フォー・ガスという言葉を生むようなガスへの急傾斜は避けなければならない。
国内炭二〇〇六年度まで延命小さな問題ながらエネルギー問題の観点からは大きなテーマを抱えていた囲内石炭問題が決着した。 ほとんど消えかかっていた囲内石炭の生産が二〇〇六年度まで継続されることが、九九年夏、通産相の諮問機関である石炭鉱業審議会の答申で決まったためだ。

ほほ全量引き取ってきた電力業界は拒百の姿勢を鮮明にして抵抗したが、最終段階で妥協を強いられた形だ。 日ドの潮流である市場原理至上主義からは全くの不合理とされる決定だが、様々なエネルギー問題の現実を示してくれたことも締かである。
黒いダイヤモンドとして戦後しばらくの問、もてはやされた石炭だが、日常生活の場から消えて久しい。 昭和三一十年代のエネルギー流体革命といわれる石炭から石油への転換によって、日本の石炭は窮地に立たされた。
その後、石油危機で一時見直されたものの、今度は海外からの安い輸入石炭の挑戦を受けて、ぎりぎりの命運が今回の決着だったといえる。 実はこうした流れのなかで日本には今、石炭鉱山は二つしか残っていない。
炭鉱節で有名なM炭鉱が閉山となったことで、日本の石炭産業の消滅は決定的となり、細々とまさに消え入らんばかりの状況となっているのが現状である。 その残された二つは、北海道の太平洋炭鉱と長崎県の池島炭鉱。
太平洋炭鉱の従業員は約千三百人、年間石炭生産は約二百十万トン、池島炭鉱は同約七百人、同約百二十万トンという規模にとどまっている。 この石炭、終戦直前の一九四五年三月の一か月当たり生産高は約三百五十万トンあった。
現在は年間で三百万トン程度であり、いかに石炭が重要であったかがわかる。 当然、戦後の復興も文字通り石炭が原動力であり、今に名をとどめる「傾斜生産方式」の重要な対象産業だった。
この結果、石炭生産は戦後復興の象徴のように増産につぐ増産が続き、一九四六年度は年間二千二百五十万トン、翌四七年度は二千九百三十万トン、さらに四八年度には三千四百八十万トンに達し、需要を上回る生産となった。 石炭鉱山も北海道、九州を中心に、五二年は実に千に迫る九百四十九に上った。
これがいわゆるエネルギー流体革命で、電力会社も石炭火力から撤退、東京電力は今、独自の石炭火力発電所を持っていない。 そして石油危機後の石炭見直しでも、電力会社が見直したのはあくまでも海外の石炭だった。
この間に国内石炭産業は炭鉱事故、さらには長期ストライキなどの社会的な問題に直面して、衰退の一途をたどることになり、政府による一種の保護産業となってしまっている。 石炭対策は現在の「新しい石炭対策」までに八次にわたる対策が政府により打ち出された。
その答申内容の変化を見ていく時、日本の石炭問題の大きな流れが浮かび上がってくる。 第一次石炭政策が出されたのは一九六二年十月だった。

その基本方針の要旨は「石炭鉱業の崩壊のもたらす関係者への影響、地域社会に与える深刻な打撃、国民経済の被る損失を防止することは国民的課題である」というものだった。 そして年間五千五百万トンの生産目標が掲げられる。
しかし、この目標は第三次策で五千万トンに、さらに第五次策では二千万トンに、最後の石炭政策といわれた八六年の第八次策では一千万トンにまで下左修正された。 政府の手厚い保護政策下にあっても、日本の石炭産業がほぼ立ち行かなくなったことは明らかだった。
そして八次策は「囲内炭には海外炭との競争条件の改善は見込みえない」とし、「生産規模の段階的な縮小はやむを得ない」と事実上の石炭政策終罵を宣言した。 これは日本の石炭産業に引導を渡したものと受け止められた。
ところが、九一年、石炭政策は「新しい石炭政策」という形で生き延びる。 答申は「九〇年代を国内石炭鉱業の最終段階と位置付け、段階的な縮小を図る」という方針を打ち出した。
今回の答申はこうした石炭政策の流れのなかで出されたものだ。 もはや石炭鉱山は二つ。
そして鉄鋼、セメントといった国内炭の主要な引き取り手はすでに撤退、電力業界だけが唯一の引き取り手という状況だ。 答申のとりまとめは難航した。
電力自由化の真っただ中にある電力業界は三分の一という海外炭並みへの値下げを要求、さもなくば引き取りからの撤退を掲げ、「今度こそ最後」と迫る政府、通産省と激しく対立した。 公益事業としてはこれまでにない抵抗だった。

急速に進む電力自由化のなかで、合理化を進める電力業界としては、不合理な価格の囲内炭を引き取り、その負担を消費者に転嫁はできないと考えたのは、あまりにも当然だった。 もはや地域政策、社会政策の対象となった石炭産業に民間企業が犠牲を払うというのは、確かに時代錯誤といえる。
しかし、囲内炭存続派は「政府、自治体の支援、海外炭鉱への技術移転、さらに電力業界の二〇〇二年度以降五年間の引き取り」という方針を変えず、電力業界も最終的にこれを呑んだ。 これによって日本の石炭産業は今後、二〇〇六年度までの延命がほぼ約束された。
今後に価格引き下げ交渉などが残されているほか、新たに延命の前提となった海外技術移転をどう進めるかが焦点となってきている。 注目される海外への技術移転は、日本の石炭産業が地中深く掘り進む手法を確立しているためだ。
海外では目下、露天掘りが主流であり、将来、日本の技術が役立つという。 すでに中固などには研修生の受け入れなどで技術移転が進められつつある。
具体的には「技術移転五か年計画」の策定を進め、内容を決めていくが、政府には石炭産業の延命をODAの対象に取り込む考えもあるといわれている。 苦肉の策、あるいは妥協の産物ともいえる。
ともあれ、日本の石炭産業は伝統技術といってもいいような形での当面の存続が決まった。 「あの技術を絶やしてしまうのはいかにも残念」という感傷はエネルギー問題専門家にもある。
しかし、金融システムがあの護送船団方式で守られ延命された結果を視野に入れる時、今回の国内炭延命が将来、どういう問題を投げ掛けてくるのか、明確な見通しはない。 京都会議以降の逆風国内石炭生産は二〇〇六年までの延命が約束されたが、九七年末の地球温暖化防止・京都会議以降、石炭に逆風が吹き始めている。
環境問題の視点から批判の対象とされ始めたからだが、エネルギーには安定供給、価格といった別の尺度を含めての総合判断も必要だろう。 今、四国・徳島県の阿南市の小勝島に日本一の石炭火力発電所が誕生しようとしている。

瀬戸内海の東端にあたる風光明加な小さな島で四国電力と電源開発会杜が共同立地で建設を進めていた橘湾火力発電所である。 四国電力が七十万キロワット一基、それに電源開発が百五万キロワット二基を建設、二〇〇〇年七月の運転開始を目指している。
電源開発の一基百五万キロワットの出力は石炭火力・日本最大であり、一二基合計の出力二百八十万キロワットは一か所の石炭火力発電所としても日本最大となる。 こうした特色を持つこの橘湾発電所だが、一時の期待感が薄らぎ始めてきていた。

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